イコジン日記

多賀淳一が、食べる日常、出会う日常をのんびりと綴っていきます~

「人間の土地へ」小松由佳著 を読んで

日本人女性として初めてK2に登頂した方。

この本は、そこにフィーチャーしている

のではなくて、彼女の私生活の壮大な

冒険についてだ。

 

誰もなしえなかった登山の冒険から命を

持ってからがらに生還した彼女だった

のだが、そこに小さな違和感に包まれ

てしまった。

 

それはその山からの、その山の麓の

暮らしに対してだ。

そこで人間としての幸福について

深く考えてしまった。

 

そして彼女はそこで運命としての

出会いを果たすわけだが、その運命の

シリアの青年と一生を共にする覚悟も

宿す事になったのだ。

その覚悟を携えならものシリアの内戦、

そこからの様々な苦難を乗り越えての、

二人の居場所に落ち着くまでの果てし

のない冒険。いや、冒険と呼ぶには

あまりに過酷で、余りに本物の愛が

そこには存在していたと思う。

 

登山が、定義の信念の伴う冒険だと

したら、彼女の人生は、そこに生死の

危うさの比重は近しいとして、

明らかに違うのが、定義のない、

そして信念とも違う、もっと過酷な

運命の受け入れと、受け入れた上

での挑みではなかろうか?

 

彼女の人として凄いのは 

「受け入れと挑み」 そして、

それに対する果敢さが人並外れて

いるということだと思う。

 

以下抜粋)

日々の選択によって自分の生がある

という実感。

それこそが “人間の命の意義”

 なのではないだろうか。

 

ラドワンと生きるなら、一生苦労が

絶えないだろう。だが、それで良かった。

むしろ予測不可能な苦労がつきまとう

ことに痺れるような喜びを感じた。

それは未知の山へ、新しい一本の道を拓く

ような純然たる思いだった。

ラドワンはまさに、私にとってヒマラヤの

峰のような存在だったのだ。

 

シリア人が “故郷” と呼んでいるのは、

土地そのものよりも、むしろ土地に生きる

人の連なりだ。つまりシリア人のとっての

故郷とは人なのだ。

 

ヒマラヤの山々は、私に、 “命が存在

することの無条件の価値” を気付か

させてくれた。人間がただ淡々とそこに

生きている。その姿こそが尊い

 

私は歩き続ける。ヒマラヤから砂漠へ。

難民の土地へ。そしてまだ見ぬ、

人間の土地へ。

 

多賀も、まだまだ歩き歩み続けたいなと

思わされた。

とんでもなく良本だった。

人間の土地へ