イコジン日記

多賀淳一が、食べる日常、出会う日常をのんびりと綴っていきます~

(書評)ウクライナから来た少女「ズラータ16歳の日記を読んで」

2022年2月、ただ普通の日常を送っていた

だけなウクライナの市民に訪れた、

無意味な戦争。

 

戦争に意味を見出そうとする輩が知識人に

散見されるが、多賀はその一切の事象を

認める言葉を持ち合わせていないし、

一生それに迎合するつもりもない。

ただただアホな奴らだなと思うだけだ。

 

戦争は欲に駆られた馬鹿な大人の幼稚な

喧嘩だと思っているのだが、喧嘩なんて、

タイマンでやって、当人同士が痛みを

分かち合えば良いだけの話なのだ。

 

それを何の罪のない、何の関係もない人

を巻き込むのだから、そしてそこに命の

やり取りまでさせてしまうのだから、

これ以上の愚かしい事なんてないと

思っている。

 

もし自分の子供が、戦争に行って、

その尊い命に何かがあったら、多賀は

それを先導した人間を一生許さない。

 

その対象はある意味、敵ではなく、

味方だと思っていた側に隠れている

のではないかとも思っている。

 

だから、そんな事を考えながらも、

それにしても今回のウクライナの戦争は、

余りにも無意味さが露呈されていて、

その先導者の愚かさが滲み出ていすぎる。

そして余りにも子供じみている。

いや、子供の方がもっと賢いはずだ。

 

そんな戦乱の中から、日本が大好きで

若くして独力と周囲のサポートもあり

ながら、周囲も驚くほどの日本語の

習得をしたウクライナの少女のズラータ。

そしてその母親の必死な中からの計らいで、

戦禍を逃れての日本への脱出。

 

そしてそこまでの行程と、

そこまでの困難と。

そこに共通して伺えるのは、

ズラータ母子の強烈な意志だった。

 

「意志ある所に人は集まる」

とはよく言われるが、まさしく

ズラータの強い意志が、母親の

加護さえ超えて、その途中から

ズラータ本人を日本に導く事になった。

 

人には誰にでも、そのものの大小は

あったとしても意志はあるはずだ。

それを自分の為だけに向けるのか、

人の笑顔を頂く事に向けるのか?

それによってその行動にえらくの

差異が生じるのだと思った。

 

ズラータは、ウクライナと日本との

架け橋にならんとする強い意志が

そこに確固たる存在をさせている。

これは、人が生きる道としてとても

大事な標(しるべ)の教訓を示して

くれていると思った。

 

誰かの為に生きるのか?

自分の為だけに生きるのか?

そこに人生の吉備があるのかも

しれないと思った。

良本で教本です

こんな景色を平和な中で享受出来る有難みを常に感じていたい