イコジン日記

多賀淳一が、食べる日常、出会う日常をのんびりと綴っていきます~

「木遣り」

「木遣り」

木遣りをやる事になったよ。

 

木遣りとは何ぞや?

 

かくいう自分も三崎に入る前には、

そんな言葉知らなかったんだよな~

 

これは三崎の祭り言葉で、

掛け声の受け手と出し手の人の事で

木遣師とも言うらしいのだけど、

同じ三浦半島なのにこうも文化が違う

なんて、面白いな~と最初は思ったかな。

 

ただ、市場の仲間に数年前にDVDを

借りて観た時には衝撃的だったのは

覚えているな。

 

若者と年配者のその掛け合いが実に

絶妙な適度な距離感があって、

お互いを知るからこそ出来るハーモニー

を奏でていて、

 

わ~これだ~!って思っちまったのを

覚えている。

 

一見単調な節回しも、そこに様々な変化

があって、そこがなんとも奥ゆかしくて

深淵で、そこにも魅了された。

 

亡くなった祖母が小唄のお師匠さん

だったのもあるかもしれないけど、

いつも傍らで聞いていたのも、

きっとそこに耳残りがあったのは

間違いないと思ったかな。

 

先日、木遣りの新年会が三崎の居酒屋で開かれて

宴の終わりに新人の自分を除く全員で、木遣りを皆で回した

(唄った)のだけど、

 

ほろ酔いの手に握ったグラスから口に

それを注ぐのを忘れるくらい、

うっとりしながら聞き入っちまったんだ

よね。

 

それがさ、果たしていつか自分が出来る

なんて、今はいくら図々しく見積もっても

想像出来ないけど、

 

この回しに参加した時にきっと、

幸せだな~って思うのは

間違いないんだろうな(^^♪

 

実は今年の夏祭りに参加するだよね^^;

下手くそ~ってどやされないようにしないといけないよね(笑)

魚河岸部の木遣り

「自利利他」

おはようございます

 

サラリーマンの時は

仕事柄選挙活動にとてもご縁があったの

だけど

 

また少し、ざわざわしてきたので

雰囲気だけでも覗いてみる事にした。

 

趣味とかレジャーや

社会生活者の活用以外での

YouTubeだのなんだのの発信者には

全く興味がないのだけど

 

覗いてみた

ある野党のある党の顔がテレビ討論している場面

だった

 

ちょっと口が悪くて申し訳ないが

まず

人相の悪いやっちゃな~だった

 

そして

自分の為にのみに生きている奴だな~

って事だ

 

そこに

”自利利他” のような趣は一切なくて

 

討論を聞けば聞く程に

ただの自己保身の塊の人間にしか見えな

かった。

 

そんな塊だから

言葉が薄っぺらい

顔も変にニヤニヤしていて気持ち悪い

 

こんなの市場にいたら

ブツブツ言ってないで

うちに帰ってお母ちゃんに

ケツでもふいてもらってな!って

言われるのがせきのやまだ

 

それにしても

YouTubeでの

薄い先導に

薄い共感者たち

 

きっと結党当時には

それなりの志があったはずだとは

思うが

 

心の理念

本当の苦しみ悲しみ喜びを知らないから

あんな顔に

なっちゃうんだろうな~

 

アメリカもアルゼンチンもそうだったけど

こんなのが露出が多い世の中

 

世も末だわな~

 

くわばらくわばら

 

残念だな~

 

SNSと本と

最近と言うか

 

随分前から本離れ、活字離れが叫ばれている。

 

今は活字離れと言うより

人間の英知と伝承が詰まった

文章からの想像力の蓄えの作業の欠如の方が

圧倒的に危ないと思わされている。

 

それが

危機感に対する五感の欠如に結びついて

いるのに他ならないと思っている。

 

以前頭に描いた文言があって

「指南本の憂鬱」と言う文言なのだけど

 

指南本は咄嗟の有効性があると

勘違いされがちだけど

それは火事場でのバケツリレー位のしかの

威力しかないのに

ただ水には違いはないので

そのバケツリレーを永遠に繰り返していく

奇妙な循環にはまっていくのだ。

 

それでもまだ活字の面倒さがあって

そこからの書籍への誘導の入口にはなっていた。

 

だけど

SNSは中々手強い

 

その浅さと、広がりの大きさのバランスが悪いから

そこに人は中毒症状を起こしてしまう

 

いわゆるアヘン戦争の時のアヘンの役割を

それはしっかりと担いはじめている。

 

文章から頂ける未来

文章から頂ける想像力

 

それが産業に置き換えると

想像力のなくなった未来

一次産業的視野や

一次産業的作業者がいなくなった未来

 

皆はどこまで想像出来るのだろうか?

くわばらくわばらってやつだ

ペンギンものけぞります。はい

「東京の馬鹿」

何だかちょっと過激だけども、

東京って馬鹿だと思う。

 

とても大雑把な言い方で恐縮なのだけど、

少し言葉を足すと、東京偏重主義が

馬鹿だな~って事なのだ。

 

それは経済や行政の主軸を東京に置く事

による思考の偏りの馬鹿は当然として、

自然災害に対しての余りの無防備さと、

それに対する備えの鈍調さと慢心さが、

お馬鹿を極めている僕でも、

見ていてそら恐ろしく感じてしまう。

 

昨日も知人と話していて、もうすぐ

起こる災害について自然発生的な

話題として登場したのだけど、

それが自然でない東京って

やっぱり馬鹿だなと思う。

 

じゃぁ馬鹿じゃない東京って

何なのよ?と聞かれると思うけど、

馬鹿じゃない東京は、

そこじゃない東京なのだって事なのだ。

 

“そこじゃない” って考え方。

きっとまともじゃないって思われる

のだろうな~。

 

と、お馬鹿な僕は今日も思うのでした。

TOKYO

 

「じゃりじゃりとバーベキュー」

学生時代7年間近所の海でアルバイトを

していた。

 

最初の頃、バイトが終わると先輩と砂浜に

穴を掘ってそこに網をかけてよく

バーベキューをした。

当たり前だが肉も野菜もいつも

じゃりじゃりな食感だった。

 

砂浜の砂まじりのじゃりじゃり肉と

じゃりじゃり野菜をじゃりじゃり

ほおばりながら、ほぼほぼ話題は、

どんだけ魅力的な女性に遭遇出来たのか?

どんだけその魅力的な女性とお話が出来たか

の一点集中だった。

 

僕たち田舎者に

とっては、夏だけが都会からの洗練された

女性に遭遇出来る唯一無二のチャンス

だったからだ。

 

それから何年も何年も経って、ある日、

友人とBBQコンロなんてものを使って

バーベキューをしていた。当然だが肉も

野菜もじゃりじゃりしていなかった。

 

だけど突然、そうだ突然だ、

あのじゃりじゃりが無性に懐かしくなって

しまった。

 

実は人生って思い通りにいかないで

少しじゃりじゃりしている方が

心地よいのかもしれないと、

ふと思ってしまった。

森戸海岸

「1本の傘」

早朝の時間調整で市場の近くのファミレスに

ちょいちょいお邪魔している。

 

とても居心地が良くて、スタッフもお客さん

も馴染みで、あたかも朝だけの家族みたい

な雰囲気にすら感じる時がある。

 

その常連に齢80位かな?それ位の老夫婦が

いらっしゃる。どうやら近所に住まわれて

いるようだ。

 

その奥様の方なのだが、兎に角、よく

しゃべる。ひたすらしゃべっている。

僕もおしゃべりだからあんまり人の事は

言えないが、そんな僕から見ても

すげ~な~って思う程しゃべりまくって

帰っていく。

 

それをご主人はいつもただひたすら

笑って受け流している。

食べるいとまも与えられないほど

なのに、嫌な顔一つせずに・・・

 

そんなご夫婦を僕たちお客、そして

お店のスタッフは面白がって見ている。

 

ある日、天気予報に出てこない、

突然の雨が降ってきた日があった。

当然のように奥様がギャーギャー

騒ぎ出した。

 

すると、ご主人がやおら立ち上がって、

自宅に帰って傘を持って来られた。

びしょ濡れになりながら。

だけどご主人は傘を一本しか持ってきて

いなかった。

それを奥さんは烈火のごとくなじった。

「何で2本持ってこなかったのよ~」と

 

ご主人はいつものように笑って

受け流していた。

 

そして帰る段になって、僕たち

ギャラリーはにわかに期待して観ていた。

その1本の傘がどのように使われるかを・・

 

果たして、清算を済ませて店外に登場

したのは、悠々と傘をさして歩く奥さんと、

その3歩後を、傘をささずにとぼとぼ

歩くご主人の姿だった。

 

僕たちギャラリーは、そのあんまりな

展開に一同みな顔を見合わせてしまった。

そして次の瞬間、皆でちょっと笑って

しまった。

 

ご主人は恐らく1本の傘を相合傘で帰る

密かな野望があったはずだ。

だけどそれは叶わなかった。

 

僕たちギャラリーは、それを “哀” 

だとは感じなかった。

何故か “幸” を感じてしまった。

 

あの夫婦はあれでいいんだ。って誰もが

思ったからだと思う。

 

それで良しと思えば全て “幸” なの

だなと思った。

 

人生ってこれで良しと思えば全て “幸”

って事なんだよな~と感じた朝になった。

「人間の土地へ」小松由佳著 を読んで

日本人女性として初めてK2に登頂した方。

この本は、そこにフィーチャーしている

のではなくて、彼女の私生活の壮大な

冒険についてだ。

 

誰もなしえなかった登山の冒険から命を

持ってからがらに生還した彼女だった

のだが、そこに小さな違和感に包まれ

てしまった。

 

それはその山からの、その山の麓の

暮らしに対してだ。

そこで人間としての幸福について

深く考えてしまった。

 

そして彼女はそこで運命としての

出会いを果たすわけだが、その運命の

シリアの青年と一生を共にする覚悟も

宿す事になったのだ。

その覚悟を携えならものシリアの内戦、

そこからの様々な苦難を乗り越えての、

二人の居場所に落ち着くまでの果てし

のない冒険。いや、冒険と呼ぶには

あまりに過酷で、余りに本物の愛が

そこには存在していたと思う。

 

登山が、定義の信念の伴う冒険だと

したら、彼女の人生は、そこに生死の

危うさの比重は近しいとして、

明らかに違うのが、定義のない、

そして信念とも違う、もっと過酷な

運命の受け入れと、受け入れた上

での挑みではなかろうか?

 

彼女の人として凄いのは 

「受け入れと挑み」 そして、

それに対する果敢さが人並外れて

いるということだと思う。

 

以下抜粋)

日々の選択によって自分の生がある

という実感。

それこそが “人間の命の意義”

 なのではないだろうか。

 

ラドワンと生きるなら、一生苦労が

絶えないだろう。だが、それで良かった。

むしろ予測不可能な苦労がつきまとう

ことに痺れるような喜びを感じた。

それは未知の山へ、新しい一本の道を拓く

ような純然たる思いだった。

ラドワンはまさに、私にとってヒマラヤの

峰のような存在だったのだ。

 

シリア人が “故郷” と呼んでいるのは、

土地そのものよりも、むしろ土地に生きる

人の連なりだ。つまりシリア人のとっての

故郷とは人なのだ。

 

ヒマラヤの山々は、私に、 “命が存在

することの無条件の価値” を気付か

させてくれた。人間がただ淡々とそこに

生きている。その姿こそが尊い

 

私は歩き続ける。ヒマラヤから砂漠へ。

難民の土地へ。そしてまだ見ぬ、

人間の土地へ。

 

多賀も、まだまだ歩き歩み続けたいなと

思わされた。

とんでもなく良本だった。

人間の土地へ