イコジン日記

多賀淳一が、食べる日常、出会う日常をのんびりと綴っていきます~

村社会

多賀は、脱サラをして起業して、

色々あって今は鮪の卸問屋及び関連事業に

携わっていて、今も三崎での作業の空時間に

こうやって書いているのだが、

 

三崎の市場、特に鮪部門に関して言えば、

すこぶる特殊で、外様の干渉をほぼ許さない

土壌がしっかりと出来上がっている。

 

いわゆる村社会なわけだが、そんな村だからこそ、

いざしっかりとした心持ちを持って入村して、

それが受け入れられた場合。望外に気持ちの良い

環境を頂ける事がある。

 

多賀は希少な例だと思うが、

気持ちの良すぎる環境を頂けている。有難い話だ。

で、その外様だからこそだが、今までのその場所の

慣習の一長一短に、譜代よりも違う気付きを頂ける

のは、当然と言えば当然かもしれない。

実は、古い慣習の三崎だが、そこに今大事な事象

になってきている、SDGSが備わっていたりして、

見ていて微笑ましくなってきたりもする。

 

最たる例は、入札の仕組みと、そこでの

ライバル業者との相対なのだが、その入札会場の

中に、共存的思考が備わっているのだ。

多賀は、入札に何かと縁があるようで、

サラリーマンだった時は、いわゆるゼネコンって

奴に所属していたのだが、そこでも最後は入札の

毎日だった。

そこもとびっきりの村社会だったが、

振り返ってみれば、そこも共存的思考からの

行動原則が幅を利かせていた。

 

これって、実は表裏一体で、この共存的思考の

使い道によって、こうも出口が違ってくるもの

なのかと言う程、その、道徳的規準からし

雲泥の差が生じてしまっているのである。

 

それは、何故か?

その行為が自発的な自利利他的行動か、

仕組みに埋没しての村社会への

服従的行動なのかの違いによるものかも

しれない。

 

当然だが、服従的行動には、主義思考など

当然ないので、そこに持続可能な販管費など

考えるいとまなどあるはずもないわけで、

そうなると社会にとって大きな損失を与え

かねなくなってきたりする。

 

日本の社会は、良くも悪くも、その根源は

村社会にあるわけだが、その活用の仕方に

よって、それが社会にとって有意義か、

果たして全くの損失しか生まないのか・・・

そこにこそ、表裏一体の理論が存在する

のかもしれない。

 

とりあえず、今日も三崎市場村の愉快な

面々は、朗々(老々)快活だ。

朗々(老々)快活な場内